生きても無、死んでも無
なら死にたいなあと思ってはや3ヶ月目くらい。
年末年始が鬱のピークで死にたい気持ちが抑えられなかった。1月下旬に多少よくなったかなと思ったけどダメで、土曜日に家族の前で泣き出したので火曜日に精神科の初診に行った。
月曜日に親がかかりつけ医(内科)に行き、紹介状をもらって翌日のキャンセル待ちに入れたのでそのこと自体はラッキーだったと思う。
鬱の原因は生きている近代社会への絶望だから根本的解決は不可能。マックス・ウェーバーとか宮台真司とかミシェル・ウエルベックとか、このクソ社会なんて自明だよと言ってくれる人の本を読むのが多少、癒しになるくらい。
まあ最近は難しいこともできなくなってきたんだけど。
元々食に興味がなかったり生に執着がなかったり、生きる力は弱い方だった。自分が動物ならとっくに淘汰されているはずで、そのことも生きることの辛さにつながっている。自分の存在は本来(自然界では)余剰なのだ。
大人になるにつれて自分が「鉄の檻」から出られないことを意識するようになって苦しくなった。大学受験くらいからその雰囲気を察したので高校にも行けなくなった。
どれだけ職業選択の自由、移動の自由、思想信仰の自由が守られていても、社会以外で生きるという選択肢はもはやないのだから、社会適応ができない人間にとって辛いのは当然のことである。
宮台さんが普段言っていることを自分なりにパラフレーズすると、
a.この世界の仕組み(≒鉄の檻)がわかるメタ認知能力がある
b.ごく一般的な(しかし現代では稀になってしまった)共感能力がある
このab両者を揃えたまともな人にとってこそ、苦しい世の中になってしまったんだということ。
神田沙也加さんが亡くなったときなどは、まさにこれが当てはまる気がしてとても共感した。彼女のような人が生きていたくない社会なんだな。と改めて実感した。
a.はあるけどb.はないという人もいる。そういう人は、この資本主義社会というゲームでガンガン勝っていく、賢いだけの人。まあひろゆきとか箕輪とか堀江とかああいう感じ。
b.だけの人もいる。HSPとか言われていたりする。ここも一般的な就労は苦しいように思う。
ab両方ない人がふつうで、β存在というか、それが8割くらいだと思う。多少労働がつらくとも何事にも気づかず流れるような日常を送る人たち。
a.のみや両者がない人たちに頑張って経済を回していただき、我々はBIで暮らしたいと切に願う……。
安心安全、すべてを法化して包摂しようとする社会は気持ち悪いし軽蔑しているのだけど、自分がやっていること(資格の勉強)がまさに法の世界に入っていくことだから、矛盾を感じて苦しいんだと思う。だから真っ先にそれができなくなってしまった。
はっきり言って自分は頭がいいし客観視もできるので、鬱状態になっても、すべて、わかっている。
11月に田舎の遠縁のところに行った。周囲がみな近隣の関東暮らしで田舎がなかった自分にとって、憧れの場所、ずっと行きたいところだった。「ここではないどこか」へ行きたかった。でも「ここの延長」でしかなかった。そのことは鬱の引き金になった。日常へ戻ってきて、涙が止まらなくなった。
理想郷なんて1970年代に喪失されて久しい。そもそもハイデガーの駆り立て論に従えば、「ここではないどこか」なんて永遠に見つからない。でも何も変わらないこと、自分の住んでいるところの下位互換でしかない田舎、それを見せられたのはとてもショックだった。
社会に出る前からこんな観念的なことで悩んでどうしよう?と自分でも思う。でもどうしようもなく辛い。
痛い・苦しいのは嫌だから自殺はしないけど、ヒトラー最後の7日間でゲッペルス夫妻が我が子らに使ったような神経毒があるなら真っ先に死ぬだろうな。
最近は抗うつ剤のせいで眠気ばかり、感情もフラット、作為的なことは何もできない。
とりあえず少し休む。試験が近いが、受けるかどうかもわからない、仮に合格しても、登録して働くことはないんだろうな、という気がする。