by SHIRA / Сира

Twitterには載せられない長文を書く。不定期更新。

宮台真司・東浩紀『父として考える』感想

宮台真司東浩紀の対談本『父として考える』がKindleセールで290円ほどで買えたので購入。対談形式だし薄いので一晩で読める。

この本の根底を貫くテーマはこんな感じ:

ひとはやっぱり多様な他者(隣人)と交流した方がいいよ

2009年の対談でありながら、あまり古さは感じさせない。地域社会の空洞化、格差社会など日本社会の根本問題が子を持つことを通じて得た2人の視点により語られている。

唯一時代を感じさせる部分は、この頃はまだ東さんがTwitterに希望を持っていたところかなあ。東さんはGoogleなどの検索エンジンは「見たいものしか見ない」島宇宙化を促進させるけど、Twitterはフォローしている人がワントピックしか語らないわけではないから、島宇宙を飛び乗って行ける、それこそ誤配が通じる空間になり得るのではと語っている。けど、Twitterも今や同質性の高い集団が似たような人たちを集めてどんどん閉じこもる空間になってしまいましたね……。

 

以下、ブクマしたところを引用しつつ紹介

バリアフリーとかユニバーサルデザインというのは、弱者への配慮云々という高尚な言説以前に、公共性や普遍性を実質的に確保するための最低限で具体的な倫理のことだと思うのです。幼児や高齢者をシャットアウトしたところに、公共性はない。

これは東さんの発言。以前住んでいた西荻窪の、リベラルで意識の高い、でも排他的(車椅子やベビーカーが通れない)なおしゃれなカフェなんかが理想として語られていることの違和感と共に述べられている。そしてショッピングモールを子連れが安心かつ安全に休日を過ごせる場所として評価し、イオン的なものが大資本として田舎の商店街を潰していく的な一概的な批判ってどうなのよってところにつなげている。これはなるほどなと。個人商店が独立して頑張っているような場所は確かに昨今再評価されがちだが、様々な不便(1箇所で買い物が終わらない、気軽に子供を連れていけない、トイレ問題など)が伴う。社会の構成員には幼児も高齢者も当たり前にいるので、大人の健常者だけに特化した公共性って確かに不気味である。

また1章では2人の娘さんの対照的な姿も描かれている。宮台さんのところの娘さんは、夫婦が仲良くしていると嫉妬が母親に行く(=娘と母の、父をめぐる戦い)。東さんのところは、夫婦が仲良くしていると嫉妬が父親に行く(=娘と父の、母をめぐる戦い)。これは宮台さんの家の方が異性親を取り合うという点でオーソドックスなのだが、東さんのところでは違うということで、同じ女児でもかように反応が変わるのだな……と。(ふと考えると自分はどうだったのだろう?父親の存在が希薄すぎて懐かなかったので、そもそもこのフェーズ自体生じていない気がした。)

 

同質性の高いひとたちが、人間的絆を持てない場合、必ず同一性と差異性の観察に、過剰に血道をあげるようになります。

これは宮台さんの発言。いわゆる親同士の見えの張り合い、学校内での親友バトル問題について、東さんが自分のとこ(大田区)は気楽だけど、三鷹の一軒家の友達の家は気を使うらしいという発言を受けてのもの。宮台さんはこのことをニュータウン取材をしたときに感じたそう。人間はどうしても他者の優位に立ちたいというどうしようもない願望があり、すると同質性が高いからこそ、細かな差異に敏感になる。ちょっとでも違うやつはハブられるし、ちょっとでも平均からズレると(貧乏方面でも裕福方面でも)揶揄される。学校とかで嫌でも経験しましたね……それが嫌で行かなくなったけど。

この章以降、今の子供達や教育方針って結構絶望的で、でもそれは全て今の大人たちがダメだからで、とにかく親の方をなんとかしなきゃいけないというある意味いつもの宮台さんの話が展開される。そしてこのような「浅ましい親同士の争い」から子供達が無縁でいられる子供の領域が都市からどんどんなくなっていること、学歴ってリスクヘッジであって目的ではない、そんなの幸福と何も関係ないという話などもされている。本当にそれがわからない大人が多いのよね……。うちの高校は進学至上主義?だったが、良い大学を出ていても全く幸せそうではないどころか人生諦めちゃった人が目の前の教壇にいるわけで、ほんとうに滑稽だった。まずお前の人生をどうにかしろ、話はそれからだ(ということが多すぎるよまじで)。この国の問題は働いている人が皆辛そうで不幸に見えることで、それをどうにかしないことには何事も成せないと思う。そしてそれには一人一人が自立して楽しくやっていくしかない。必ずしもフリーランスになれという意味ではなくてね。

2章は他にも職住近接が大事とか、美術館に託児所作ってよ!とか、育児をしても他ごとをあきらめなくても良い仕組みを作れよって話がされている。そもそも仕事と育児は断絶したものではなく、ゼロサムでもないのだから、という二項対立ではなくもっと柔らかく思考すべしという東さんらしい考えが語られている。

 

なじめなかったというか、うんざりしていました。理由は、いまの言葉で言うとネオリベ的に最適化された空間で、シニシズムが支配していたから

これは東さんの発言。前段に学校は今やホームベース・子供たちがリラックスできる場所ではなく、90年代以降はむしろ緊張を強いられる場になってしまった(そしてそういう子たちが渋谷などの都市にホームベースを求めて出て行った)という宮台さんの話があり、東さんはそれ以前の世代なのに学校に馴染めなかったのはなぜ?という質問に対する、東の回答。この後に東大文一では入学前の合宿時点で官僚になるための公務員予備校に通っている人が1/3もいたとかいう驚きの世界が語られる(流石に今の時代はないだろうけど)。それにしても、みんなが「正解」を求めて、自分の人生を最適化してしまう(サークルすら官僚になった後の出世のため選ぶ)この社会全体を覆う現象にはがっくりしてしまいますね。主体性とは。

3章ではコミュニケーション能力の高い、誰かと誰かを繋げられるハブのような人間こそが重要で、その差が就活の場で残酷にも現れてきているという宮台さんの話がされている。私は2008年の時に中学入学で、その時まさに東大生だけど内定がない!というようなことが話題になっていて、その話を体育会系担任が偉そうに語っていたのを覚えているので、時代として確かにそんな話あったなと思い出した。2022年の今ではむしろそのコミュニケーション能力も格差的に上が独占しているような感じがしないでもない。

 

けれども、子どもが本当に学ぶのは、僕が教えている内容ではなくて、僕の形式、僕の無意識なんですね。

これも東さんの発言。子どもがコミュニケーションや言語を獲得する過程での興味深い洞察がされている。1章でも宮台さんが言うように、子どものコミュニケーションの学びは内容や情報ではなく「感染」。そしてその感染を引き起こせるような環境に育ったこそ豊かに育つ。ということらしい。そう考えると私はあんまり「感染」してこなかったな、残念なことに……。

 

斜めの関係

これは宮台さんの言葉。私も「斜めの関係」は好きで、親子や祖父母といった縦の関係ではなく、また同級生や友人といった横の関係でもなく、「尊敬できる年上の同性」に教わったり助けられた経験が個人的に多いことから、斜めの関係ってめっちゃ大事よな〜と思っています。縦ほどのハラスメント的関係にはなりにくく、横ほどのベッタリ感はない。その分一期一会というか、タイミングを逃したり道が分かれればすぐいなくなっちゃうんだけど、その切なさがまたいいのよね。宮台さんが「うんこおじさん」として近所の子供達にその役割を提供しているのは、もう有名な話ですね。

 

宮台 昨今になるほど性愛の初心者に目立つようになった「必然性信仰」。かつてはそれほどでもなかったんですが、僕の文章なんかを引用して「結局あの子も入れ替え可能だ」などとホザく男子が増えました。僕の『サブカルチャー神話解体』(増補版、ちくま文庫、二〇〇七年)などを読み込めば、入れ替え不可能性は関係の履歴によってつくり出すしかない、すなわちコミュニケーションを重ね、関係性を深めることによってしか唯一無二のパートナーは見つからないものだと書いてあるんですが。

東 流動性の高い現代社会だからこそ、運命の出会いを求めてしまうんですね。そのせいで本来あるはずのコミュニケーション能力が無駄になっている。僕はむしろそちらが問題だと思います。

これは刺さりましたね〜。。必然性、運命的強制性なんてものはなくて、そもそも自分が色々やっていく上で最終的にこれしかなかった的に後から発見するものでしかないと。自分は性愛パートナーというより職業とか、人生そのものに必然性が感じられないことに苦しんでいたので、反省しました。まあ、何にでもなれる自由な社会だからこそ特にやりたいことも見つからないという、わかりやすい現代病ではあるんだけど。でも自分は精神的故郷すらなくて(新住民&ベッドタウンだから)、例えばイングランドフットボールの世界において、「どんなにそのチームが弱くても4部だろうが5部だろうが生まれついた以上地元クラブを応援することを運命づけられているのだ」、みたいな話聞くと羨ましいよ本当。ミシェル・ウエルベックなんかも『素粒子』でサラリーマン中流社会は下の世代に受け継ぐべき家業・土地・財産などを失って云々と書いているんだけど、個人の本当のミクロ化みたいなものってやっぱり精神的にかなりキツいですよね。

4章では宮台さんの実部+虚部の複素数で人間関係や社会はできているという話に、実部だけで社会を語れると思っているエビデンス厨みたいのはほんとダメと東さんが呼応する。この辺は実証主義やらファクトチェックやらがやたら言われるようになった2010年代後半からの潮流に通ずるものがある。現実を進めていくには現実を見るだけではダメで理想が必要だし、夫婦関係を続けていくには不可侵の、ある種神秘化された領域を残していくことが必要。まあこれはなんとなくわかりますね。

 

今回は話題に出ませんでしたが、僕が娘ができていちばん変わったのは、そのような「受動的存在」に対する考え方なのかもしれません。娘は勝手に育っていく。親はその点で徹底して受動的な存在なのですが、それだけでなく、娘が育つにつれて少しずつ世界を「受け入れていく」さまを見ると、なんというか、そういえば生きるとはそもそも受動的なことだったはずではないか、と感慨を新たにするのです。

東さんの発言。子どもを見ていると、主体的能動的に何かやるというよりも、まず与えられた刺激に適応していくという要素が強い。そこから生きるってこういうことだったか!、受け入れることだったか!と感慨を新たにするシーン。自分には子どもがいないのでよくわからない感覚だけど、なるほどなーと。

 

ブックマークの紹介はこんな感じ。

この本での一貫したテーマは、最初にも書いた通り色んな他者と触れ合うことが大事、ということに尽きる。同質性が高い集団の中だけにいると人間的にまずいよねってことがずっと語られている。というわけで興味ある人は買ってみてね。では。