by SHIRA / Сира

Twitterには載せられない長文を書く。不定期更新。

2022年2月24日の開戦と2022年3月3日の決意

2022年2月24日、ロシアによるウクライナ侵攻。戦争が始まった。

この日付は将来教科書に載り、暗記しなさいと言われるような日になるだろう。

私はこの日、起きたら戦争になっていてビックリした。飛行場への砲撃、国境を越える戦車、次々やってくるロシア軍のヘリ、嘘のような光景だった。まるで第二次世界大戦そのままではないか。各国のテレビ局が24時間中継を流し続ける中、日本のテレビが速報以外でまったく通常運転だったことも批判的に付け加えなければならない。

衝撃だった。あのうんざりするような日常は、かくも簡単に破壊されてしまうのか。「社会」に閉じ込められ鬱になっていた自分に、いきなり「世界」が侵入してきた。こんなことあるのか。いや、これまでの秩序が文字通り「奇跡」であって、「世界はもともとこうなっていた」のだ。こんな形で実感したくはなかったが。

2月24日、これは自分の人生も変わったなという確信があった。戦争5日目くらいまでは、突然開けた「世界」に、自分の目の前の「社会」の小さな悩みなど吹き飛び、ちょっとした興奮状態だった。しかしそれも次第に戻り、また鬱が戻ってきた。

3月1日の夜、ベッドの中で猛烈に泣き、自分の心の中で一切合切整理してみた。

 

それで、資格試験の勉強は手放すことにしました。

地方で独立できるからというのが目指した一番の理由だったのだけど、国家から「お墨付き」をもらい、国家のシステムに依存して、特定の法手続きに詳しくなることは、私の人生の目的ではないとはっきり思いました。あれだけ社会に媚びたくないとか言ってて、資格取ってスキップしようというのは言行不一致すぎる。だから勉強すると涙が出ていたわけだし……。

働くこと=生きること、なら生きたくないとまで思い詰めていたけど、別に必要があるときに働けばいいんですよね。今の私は実家にいて固定費3000円くらいしかなくて、鬱であらゆる欲望もなく、お金は全く使っていない。ならそれでいいとしました。

まあ親には申し訳ないんだけど、人間はhuman doingではなくhuman beingなので、ただ在ることを許していこうと思う。

欲しいものができたり、やりたいことがあれば派遣とかバイトでちょっと働けばいいしね。

変わりに新しいことも始めたので、そっちから人生開けるといいな。

いつになるかわからないけど、動物愛護センターにエントリーしたのでいずれ子猫も来る予定!

そんな報告でした。

生きても無、死んでも無

なら死にたいなあと思ってはや3ヶ月目くらい。

年末年始が鬱のピークで死にたい気持ちが抑えられなかった。1月下旬に多少よくなったかなと思ったけどダメで、土曜日に家族の前で泣き出したので火曜日に精神科の初診に行った。

月曜日に親がかかりつけ医(内科)に行き、紹介状をもらって翌日のキャンセル待ちに入れたのでそのこと自体はラッキーだったと思う。

鬱の原因は生きている近代社会への絶望だから根本的解決は不可能。マックス・ウェーバーとか宮台真司とかミシェル・ウエルベックとか、このクソ社会なんて自明だよと言ってくれる人の本を読むのが多少、癒しになるくらい。

まあ最近は難しいこともできなくなってきたんだけど。

元々食に興味がなかったり生に執着がなかったり、生きる力は弱い方だった。自分が動物ならとっくに淘汰されているはずで、そのことも生きることの辛さにつながっている。自分の存在は本来(自然界では)余剰なのだ。

大人になるにつれて自分が「鉄の檻」から出られないことを意識するようになって苦しくなった。大学受験くらいからその雰囲気を察したので高校にも行けなくなった。

どれだけ職業選択の自由、移動の自由、思想信仰の自由が守られていても、社会以外で生きるという選択肢はもはやないのだから、社会適応ができない人間にとって辛いのは当然のことである。

宮台さんが普段言っていることを自分なりにパラフレーズすると、

a.この世界の仕組み(≒鉄の檻)がわかるメタ認知能力がある

b.ごく一般的な(しかし現代では稀になってしまった)共感能力がある

このab両者を揃えたまともな人にとってこそ、苦しい世の中になってしまったんだということ。

神田沙也加さんが亡くなったときなどは、まさにこれが当てはまる気がしてとても共感した。彼女のような人が生きていたくない社会なんだな。と改めて実感した。

a.はあるけどb.はないという人もいる。そういう人は、この資本主義社会というゲームでガンガン勝っていく、賢いだけの人。まあひろゆきとか箕輪とか堀江とかああいう感じ。

b.だけの人もいる。HSPとか言われていたりする。ここも一般的な就労は苦しいように思う。

ab両方ない人がふつうで、β存在というか、それが8割くらいだと思う。多少労働がつらくとも何事にも気づかず流れるような日常を送る人たち。

a.のみや両者がない人たちに頑張って経済を回していただき、我々はBIで暮らしたいと切に願う……。

安心安全、すべてを法化して包摂しようとする社会は気持ち悪いし軽蔑しているのだけど、自分がやっていること(資格の勉強)がまさに法の世界に入っていくことだから、矛盾を感じて苦しいんだと思う。だから真っ先にそれができなくなってしまった。

はっきり言って自分は頭がいいし客観視もできるので、鬱状態になっても、すべて、わかっている。

11月に田舎の遠縁のところに行った。周囲がみな近隣の関東暮らしで田舎がなかった自分にとって、憧れの場所、ずっと行きたいところだった。「ここではないどこか」へ行きたかった。でも「ここの延長」でしかなかった。そのことは鬱の引き金になった。日常へ戻ってきて、涙が止まらなくなった。

理想郷なんて1970年代に喪失されて久しい。そもそもハイデガーの駆り立て論に従えば、「ここではないどこか」なんて永遠に見つからない。でも何も変わらないこと、自分の住んでいるところの下位互換でしかない田舎、それを見せられたのはとてもショックだった。

社会に出る前からこんな観念的なことで悩んでどうしよう?と自分でも思う。でもどうしようもなく辛い。

痛い・苦しいのは嫌だから自殺はしないけど、ヒトラー最後の7日間でゲッペルス夫妻が我が子らに使ったような神経毒があるなら真っ先に死ぬだろうな。

最近は抗うつ剤のせいで眠気ばかり、感情もフラット、作為的なことは何もできない。

とりあえず少し休む。試験が近いが、受けるかどうかもわからない、仮に合格しても、登録して働くことはないんだろうな、という気がする。

宮台真司・東浩紀『父として考える』感想

宮台真司東浩紀の対談本『父として考える』がKindleセールで290円ほどで買えたので購入。対談形式だし薄いので一晩で読める。

この本の根底を貫くテーマはこんな感じ:

ひとはやっぱり多様な他者(隣人)と交流した方がいいよ

2009年の対談でありながら、あまり古さは感じさせない。地域社会の空洞化、格差社会など日本社会の根本問題が子を持つことを通じて得た2人の視点により語られている。

唯一時代を感じさせる部分は、この頃はまだ東さんがTwitterに希望を持っていたところかなあ。東さんはGoogleなどの検索エンジンは「見たいものしか見ない」島宇宙化を促進させるけど、Twitterはフォローしている人がワントピックしか語らないわけではないから、島宇宙を飛び乗って行ける、それこそ誤配が通じる空間になり得るのではと語っている。けど、Twitterも今や同質性の高い集団が似たような人たちを集めてどんどん閉じこもる空間になってしまいましたね……。

 

以下、ブクマしたところを引用しつつ紹介

バリアフリーとかユニバーサルデザインというのは、弱者への配慮云々という高尚な言説以前に、公共性や普遍性を実質的に確保するための最低限で具体的な倫理のことだと思うのです。幼児や高齢者をシャットアウトしたところに、公共性はない。

これは東さんの発言。以前住んでいた西荻窪の、リベラルで意識の高い、でも排他的(車椅子やベビーカーが通れない)なおしゃれなカフェなんかが理想として語られていることの違和感と共に述べられている。そしてショッピングモールを子連れが安心かつ安全に休日を過ごせる場所として評価し、イオン的なものが大資本として田舎の商店街を潰していく的な一概的な批判ってどうなのよってところにつなげている。これはなるほどなと。個人商店が独立して頑張っているような場所は確かに昨今再評価されがちだが、様々な不便(1箇所で買い物が終わらない、気軽に子供を連れていけない、トイレ問題など)が伴う。社会の構成員には幼児も高齢者も当たり前にいるので、大人の健常者だけに特化した公共性って確かに不気味である。

また1章では2人の娘さんの対照的な姿も描かれている。宮台さんのところの娘さんは、夫婦が仲良くしていると嫉妬が母親に行く(=娘と母の、父をめぐる戦い)。東さんのところは、夫婦が仲良くしていると嫉妬が父親に行く(=娘と父の、母をめぐる戦い)。これは宮台さんの家の方が異性親を取り合うという点でオーソドックスなのだが、東さんのところでは違うということで、同じ女児でもかように反応が変わるのだな……と。(ふと考えると自分はどうだったのだろう?父親の存在が希薄すぎて懐かなかったので、そもそもこのフェーズ自体生じていない気がした。)

 

同質性の高いひとたちが、人間的絆を持てない場合、必ず同一性と差異性の観察に、過剰に血道をあげるようになります。

これは宮台さんの発言。いわゆる親同士の見えの張り合い、学校内での親友バトル問題について、東さんが自分のとこ(大田区)は気楽だけど、三鷹の一軒家の友達の家は気を使うらしいという発言を受けてのもの。宮台さんはこのことをニュータウン取材をしたときに感じたそう。人間はどうしても他者の優位に立ちたいというどうしようもない願望があり、すると同質性が高いからこそ、細かな差異に敏感になる。ちょっとでも違うやつはハブられるし、ちょっとでも平均からズレると(貧乏方面でも裕福方面でも)揶揄される。学校とかで嫌でも経験しましたね……それが嫌で行かなくなったけど。

この章以降、今の子供達や教育方針って結構絶望的で、でもそれは全て今の大人たちがダメだからで、とにかく親の方をなんとかしなきゃいけないというある意味いつもの宮台さんの話が展開される。そしてこのような「浅ましい親同士の争い」から子供達が無縁でいられる子供の領域が都市からどんどんなくなっていること、学歴ってリスクヘッジであって目的ではない、そんなの幸福と何も関係ないという話などもされている。本当にそれがわからない大人が多いのよね……。うちの高校は進学至上主義?だったが、良い大学を出ていても全く幸せそうではないどころか人生諦めちゃった人が目の前の教壇にいるわけで、ほんとうに滑稽だった。まずお前の人生をどうにかしろ、話はそれからだ(ということが多すぎるよまじで)。この国の問題は働いている人が皆辛そうで不幸に見えることで、それをどうにかしないことには何事も成せないと思う。そしてそれには一人一人が自立して楽しくやっていくしかない。必ずしもフリーランスになれという意味ではなくてね。

2章は他にも職住近接が大事とか、美術館に託児所作ってよ!とか、育児をしても他ごとをあきらめなくても良い仕組みを作れよって話がされている。そもそも仕事と育児は断絶したものではなく、ゼロサムでもないのだから、という二項対立ではなくもっと柔らかく思考すべしという東さんらしい考えが語られている。

 

なじめなかったというか、うんざりしていました。理由は、いまの言葉で言うとネオリベ的に最適化された空間で、シニシズムが支配していたから

これは東さんの発言。前段に学校は今やホームベース・子供たちがリラックスできる場所ではなく、90年代以降はむしろ緊張を強いられる場になってしまった(そしてそういう子たちが渋谷などの都市にホームベースを求めて出て行った)という宮台さんの話があり、東さんはそれ以前の世代なのに学校に馴染めなかったのはなぜ?という質問に対する、東の回答。この後に東大文一では入学前の合宿時点で官僚になるための公務員予備校に通っている人が1/3もいたとかいう驚きの世界が語られる(流石に今の時代はないだろうけど)。それにしても、みんなが「正解」を求めて、自分の人生を最適化してしまう(サークルすら官僚になった後の出世のため選ぶ)この社会全体を覆う現象にはがっくりしてしまいますね。主体性とは。

3章ではコミュニケーション能力の高い、誰かと誰かを繋げられるハブのような人間こそが重要で、その差が就活の場で残酷にも現れてきているという宮台さんの話がされている。私は2008年の時に中学入学で、その時まさに東大生だけど内定がない!というようなことが話題になっていて、その話を体育会系担任が偉そうに語っていたのを覚えているので、時代として確かにそんな話あったなと思い出した。2022年の今ではむしろそのコミュニケーション能力も格差的に上が独占しているような感じがしないでもない。

 

けれども、子どもが本当に学ぶのは、僕が教えている内容ではなくて、僕の形式、僕の無意識なんですね。

これも東さんの発言。子どもがコミュニケーションや言語を獲得する過程での興味深い洞察がされている。1章でも宮台さんが言うように、子どものコミュニケーションの学びは内容や情報ではなく「感染」。そしてその感染を引き起こせるような環境に育ったこそ豊かに育つ。ということらしい。そう考えると私はあんまり「感染」してこなかったな、残念なことに……。

 

斜めの関係

これは宮台さんの言葉。私も「斜めの関係」は好きで、親子や祖父母といった縦の関係ではなく、また同級生や友人といった横の関係でもなく、「尊敬できる年上の同性」に教わったり助けられた経験が個人的に多いことから、斜めの関係ってめっちゃ大事よな〜と思っています。縦ほどのハラスメント的関係にはなりにくく、横ほどのベッタリ感はない。その分一期一会というか、タイミングを逃したり道が分かれればすぐいなくなっちゃうんだけど、その切なさがまたいいのよね。宮台さんが「うんこおじさん」として近所の子供達にその役割を提供しているのは、もう有名な話ですね。

 

宮台 昨今になるほど性愛の初心者に目立つようになった「必然性信仰」。かつてはそれほどでもなかったんですが、僕の文章なんかを引用して「結局あの子も入れ替え可能だ」などとホザく男子が増えました。僕の『サブカルチャー神話解体』(増補版、ちくま文庫、二〇〇七年)などを読み込めば、入れ替え不可能性は関係の履歴によってつくり出すしかない、すなわちコミュニケーションを重ね、関係性を深めることによってしか唯一無二のパートナーは見つからないものだと書いてあるんですが。

東 流動性の高い現代社会だからこそ、運命の出会いを求めてしまうんですね。そのせいで本来あるはずのコミュニケーション能力が無駄になっている。僕はむしろそちらが問題だと思います。

これは刺さりましたね〜。。必然性、運命的強制性なんてものはなくて、そもそも自分が色々やっていく上で最終的にこれしかなかった的に後から発見するものでしかないと。自分は性愛パートナーというより職業とか、人生そのものに必然性が感じられないことに苦しんでいたので、反省しました。まあ、何にでもなれる自由な社会だからこそ特にやりたいことも見つからないという、わかりやすい現代病ではあるんだけど。でも自分は精神的故郷すらなくて(新住民&ベッドタウンだから)、例えばイングランドフットボールの世界において、「どんなにそのチームが弱くても4部だろうが5部だろうが生まれついた以上地元クラブを応援することを運命づけられているのだ」、みたいな話聞くと羨ましいよ本当。ミシェル・ウエルベックなんかも『素粒子』でサラリーマン中流社会は下の世代に受け継ぐべき家業・土地・財産などを失って云々と書いているんだけど、個人の本当のミクロ化みたいなものってやっぱり精神的にかなりキツいですよね。

4章では宮台さんの実部+虚部の複素数で人間関係や社会はできているという話に、実部だけで社会を語れると思っているエビデンス厨みたいのはほんとダメと東さんが呼応する。この辺は実証主義やらファクトチェックやらがやたら言われるようになった2010年代後半からの潮流に通ずるものがある。現実を進めていくには現実を見るだけではダメで理想が必要だし、夫婦関係を続けていくには不可侵の、ある種神秘化された領域を残していくことが必要。まあこれはなんとなくわかりますね。

 

今回は話題に出ませんでしたが、僕が娘ができていちばん変わったのは、そのような「受動的存在」に対する考え方なのかもしれません。娘は勝手に育っていく。親はその点で徹底して受動的な存在なのですが、それだけでなく、娘が育つにつれて少しずつ世界を「受け入れていく」さまを見ると、なんというか、そういえば生きるとはそもそも受動的なことだったはずではないか、と感慨を新たにするのです。

東さんの発言。子どもを見ていると、主体的能動的に何かやるというよりも、まず与えられた刺激に適応していくという要素が強い。そこから生きるってこういうことだったか!、受け入れることだったか!と感慨を新たにするシーン。自分には子どもがいないのでよくわからない感覚だけど、なるほどなーと。

 

ブックマークの紹介はこんな感じ。

この本での一貫したテーマは、最初にも書いた通り色んな他者と触れ合うことが大事、ということに尽きる。同質性が高い集団の中だけにいると人間的にまずいよねってことがずっと語られている。というわけで興味ある人は買ってみてね。では。

 

2021年12月〜2022年1月5日までの雑感

Twitterを衝動的に消してしまったので、ここで色々書く。ちなみにTwitterのアカウントを消したのは、大した情報が入ってこない(むしろノイズが多い)のに手放せないというストレスから解放されたので結果的にはよかった。おもしろいこともいい発見ができることもあるんだけどね。

・さやわか式ベストハンドレッド2021を現地まで見にいったけど、いやーよかった。知らないものが多くて(特に洋楽・アイドル・テレビ・ゲームはまったく触れないので)、だからこそ勉強になるというか、サブカルを楽しむ視点を与えてくれるイベントだった。今はこういうのがトレンドなんだ〜。と純粋に知れる機会でもある。個人的には「高須さんの……息子?あれ……あのなんだっけ……やばい方じゃない方!」がツボ。

・年末、坂口恭平さんが小川さやかさんの本の感想を呟いていてめちゃ嬉しかった。なぜかというと自分のツイートがキッカケだから。自分がゲンロンカフェの小川回に感動→本の感想呟く→派生で「このタンザニアの人のマインドは日本だと坂口恭平っぽい」的なことを言う→そこに坂口さんがエゴサで見つけたのか引用RTで「俺はキベラ出身ですよ!ケニアです」→坂口さんにざっと説明しおすすめの本ですとリプライ→「へー!読んでみます^_^」といただいていたから。でもまさか本当に読んでくれてるなんて!!一方で儲けつつ、でも功利主義ではなく、ただ人助けをやっていて、それでも全体で回り回ってるんだ、とそういうところにアフリカを感じているらしい。いやほんと日本では坂口恭平っしょ!それ!!

・去年〜今年にかけてのこの指とめよう騒動(クラファンで広告費を集めるもその後の事業継続なし)、呉座さんへのオープンレター&日文研テニュア取り消し騒動、そして今回のChoose Life Projectへの立民資金提供問題でJリベラル本当に終わったなと思った。完全終了です。

自分はあいトリでは津田大介に同情している立場だった。彼も当初は自分があいトリ騒動で深く傷ついたので、これからは辛い思いをしている人たちに寄り添おうという純粋な気持ちでああいうポジションを取りに行ったのだと思う。でもこの3連続ジャンプ(大技)が決まったことによりもう完全に信用できなくなった。何も引き受けてないじゃん。Choose Life Projectに元SEALDsの流れがあるという噂は昔からあったし、立民議員はめっちゃ出演していたし、そもそもメディアの表現の仕方(パワポの作り方とか癖でるよね)見てもそりゃわかるわ。あそこの抗議文に名前が上がっている人で、知らないはずがない。この指〜で説明責任を果たしたと言えるのは佐々木俊尚のみ。オープンレターの呼びかけ人がひっそりと消えているのも與那覇さんの指摘があってようやく本人が応答したのみなわけだし、もう全ての言い訳が苦しすぎる。とても残念です。こんな人とビジネスできないよね。

映画『サーミの血』がよかった/宮台理論で補助線を引くとわかりやすい

映画『サーミの血』を観たキッカケ

先日プライムビデオで映画『サーミの血』を観た。とてもいい映画だったので、雑多だけど思ったことを書いてみる。

この映画を観たきっかけは、DOMMUNEポッドキャスト(これもAmazon musicで無料で聴ける)におけるダースレイダー×宮台真司の対談で絶賛されていたから。件の番組はヤクザ映画が主なテーマなのだけど、その前段、つまり「法の外における掟の世界に生ける者の幸福」が『サーミの血』を題材として語られていた。

宮台真司に詳しい人なら、宮台がよく「法の外におけるシンクロを知っているものは幸福」とか、「我々が今生きている法の世界はクソなので適応したフリくらいに留めるのが正しい」と語っているのを聞いたことがあると思う。私はこれを2021年5月23日のゲンロンカフェでのイベント(宮台に加えて西田亮介、東浩紀が参加している。とてもいい回だったので再放送を待たれよ)でも聞いた。その時の語り口だと、1980年台の教師の例が出てきたと記憶している。ざっくり言うと、昔は教員拡大の波に乗って、暴走族あがりやヤクザあがりの教師と言うものが生まれた。彼らは今で言うところの教育困難校で素晴らしい役割を果たした。自分がヤンチャだったからこそ学校が嫌という子の気持ちがわかるし、フィジカル面でも対処できる。でも今やそんな教師はおらず、似たようなやつが似たようなやつを再生産するようになった。あ、似たようなやつってのは全部クズってことなんですけど。こんなん。

また、この記事でも書かれているように、宮崎学『近代の奈落』を引用し、「被差別民はせっかく法の外の掟の世界に生きているのに、一般社会に包摂されたがる。でも一般ピープルになる=クズになるってことなんですよ」とも言っていた。

www.webdice.jp

自分はその時、宮台さんの言うことは正直よくわかっていなかったのだけど、映画『サーミの血』を鑑賞したところ非常に腑に落ちた。というわけでここからが本題。もちろんネタバレ有り(だけどこれを読んでからみても十分おもろいはず)。

 

ざっくりした内容

サーミの血』のあらすじや予告編を見た人は、部族社会に生きるサーミの少女が、狭く閉じられた社会から抜け出し、現代の都市社会に晴れて繰り出し、性愛や友情、学校生活や消費を楽しむ……といった物語に見えると思う。しかしこれは先述のポッドキャストでもダースレーダーが指摘していたようにミスリードで、事はそんなに単純ではない。

主人公はなるほど確かに、サーミであることで嫌な思いをする。そこには性被害もあれば、トナカイ飼いを揶揄した形での屈辱的な暴力もあり、明確な進学差別もある。サーミであるからバカにされる。成績は良いのに能力が劣っていると決めつけられる。彼女がここから抜け出したい、私も「スウェーデン人」になりたい、と思うのは当然の流れである。そして実際、彼女は洗濯物から勝手に拝借したドレスを着てパーティーに繰り出し、異性と出会い、彼のツテを頼ってサーミ人のみが通う学校から脱出する(この途中にて、列車の中でも眠りこんでいる他の客のバッグから盗みをして服装や身なりを都市用に誂えるのだが、その辺の「非定住民には所有の感覚がない、だから空いているものを使うのが悪いという感覚がわからない」という議論はポッドキャストで深められているので聞いてほしい)。

晴れて彼氏の家に居座り(両親の理解を得られずすぐ追い出されるのだが)、図書館に流れ着いた彼女は司書の案内でとりあえず併設の学校の授業に放りこまれる(この一番最初の授業というのがスウェーデン式準備体操みたいなやつで、サーミの血製作陣のセンスを感じる!近代社会の規律に馴染めない主人公を見事に画で表現している。それは残酷なことに、体格や容姿といった外見も含めてである)。

右も左もわからないままとりあえず主人公は学校に通う。放課後に同性の友達とおしゃべりしたりする。一定期間の経過を経て、突然学費の請求が突きつけられる(この現代の無慈悲さよ!)。困った主人公はお金を工面するためとうとう家族のもとへ戻り、「こんなのはもう嫌!」「わたしが相続した分のトナカイを売って!」「父親の銀のベルトなら売れる。それをちょうだい!」と言い放つ。これが家族との決定的な亀裂となって、銀のベルトと共に彼女はサーミを去る。ちなみに「わたしが相続した分のトナカイを売って!」は名言だと思う。財産がトナカイという世界を知れたのは僥倖。だって我々は金銭の他は所詮不動産(土地、建物)くらいしか持っていないのだから。

ともかく彼女は学校に復帰し、なんとか都市でやりくりして生活する。ある日彼氏の誕生日パーティーに誘われたので行くと、「人類文化学」専攻の院生たちから「あなたサーミなんでしょ?あの歌を歌って!」と頼まれる(歌とはサーミ人が狩りをするとき、休むとき、暇なときに歌うもので、とにかくサーミの生活と共にある歌。映画序盤で、学校を嫌がる妹にせまがれボートを漕ぎながら歌うシーンが重要な伏線になっていたことがここでわかる)。そこで彼女はまたしても屈辱を感じてしまう。自分は結局どこに行っても出自がついてまわり、スウェーデン人に同化することはできないと突きつけられる(それを頼んだのが、一見リベラルで部族などにも理解がありそうな人類文化学専攻の院生という設定のいやらしさが制作陣の以下略)。

厳密に言うとこの映画は老婆(主人公)が過去の自分を振り返るという設定で、妹(姉とは逆に部族社会に留まることを選んだ)との関わりも重要なのだけど、とりあえずそこは観てください。ということで予備知識として必要な映画の内容はこんな感じ。

 

マイノリティとマジョリティを分けるのは、結局ささいな「差異」でしかない/マイノリティが自己の歴史を葬ることもできない

この映画を観終わったあと、あ!宮台さんがこの前言ってたのはこれか!と腹落ちした。私は「法外にいる差別されているマイノリティ(例:サーミ、ヤクザ、LGBT)が一般社会に包摂されることなんて、まったく良いことではない!」という宮台の主張がイマイチよくわかっていなかった。だって社会は間違いなくその方向性にあるし、一般社会でマイノリティが差別されるのはそりゃ良くないだろ、とシンプルに思ってしまっていたからだ。

映画『サーミの血』から私が読み取ったのは主にこの2点である。

  • サーミ人スウェーデン人を分けるのは生活様式ではない。マジョリティの世界内でもささいな差異ですぐ他者を差別するようになっている。
  • 自分の出自を「なかったこと」にすることはできない。かつて差別される側だった自分と差別する側に回った自分という矛盾した両者を自己の中に抱えるのは、いずれ自分を引き裂く。平たくいうと、名誉XXになれたとしても苦しむ。そしてそれはかなり孤独な苦しみである。

一つ目について。個人的にすごく示唆的だなと思ったシーンがあった。それは主人公がスウェーデン人の学校に入り始めてすぐ、女友達の輪に入り談笑しているシーン。誰かが道ゆく女性を見て言う。「無地じゃなくて花柄のスカートとか、ダサイ」。主人公はもちろん都市の流行のファッションなんてわかっちゃいない。でもとりあえず周囲に同調してダサイよねとか言って嘲笑しておく。

こんなこと自体はよくあることである(誰でも経験あるだろう)。重要なのは、マジョリティという立ち位置もかなり危ういものであり、常に何かを差別しておかないと成り立たないということである。そうしてスカートの柄が無地か花柄かとかで差異化を計るのだ。自分たちが差別される側になることを回避するために。

二つ目について。主人公が彼氏の誕生日パーティーで屈辱を受けてから、都市に同化し生きていった過程は映画では省かれており描かれていない。しかし老婆になった主人公が、息子に連れられて久方ぶりに部族に戻り、妹の葬式に参加しているという設定である以上、おそらく結婚をし子をもうけ、ずっとスウェーデン社会にいたことは間違いない。上の記事にもある通り、最後の妹への「許して」には色んな解釈があるだろう(ここには書かないけど、私は宮台さんとは違う解釈をしている)。主人公がサーミを飛び出したことについて、完全に失敗と思っているとか後悔しているとかやっぱり戻りたいと思っているかは定かではないし、そもそも彼女の心情はそんな簡単に割り切れるものではない。その複雑さは冒頭とラストの老婆の、素晴らしい演技に滲み出ている。役者でのMVPは間違いなくこの老婆役だと思う。

私が読み取ったのは、自分の出自をなかったことにすることはできない。という物理的には当たり前のことだ。そして、仮にそれを無理やり「漂白」してしまうと自己のライフストーリーやアイデンティティーが途端に崩れるということだ。冒頭で老婆(主人公)は、サーミを明らかに侮蔑している。汚いし、嘘をつくし、盗むし。非文明人なのだと。でもそれは、映画を観ればわかるとおり紛れもなく彼女の過去でもある。お前、盗みやってたやん。

こういう表現は適切ではないのだろうがわかりやすいので採用すると、彼女は「名誉スウェーデン人」みたいになっている。でもそれは、自分の本来の出自、差別される側だった自分を否定するものである。しかし繰り返しになるが、自分の出自を遡ってなかったことにすることなんてできない。すると彼女は、矛盾した自己を抱えることになり苦しむ。そしてそれは、マイノリティを貫いた者(妹)にも最初からマジョリティとして生まれたそんなことを考えもしない幸運な者(ほら、サーミの歌懐かしいでしょ?と無遠慮に言ってくる息子)にも理解の及ばないものである。一般社会に包摂されることを選びつつ、だからこそ過去の苦渋の経験をマジョリティの皆々様には語ることができない。孤独な苦しみだ。

このことを考えるとマイノリティがマイノリティ性を簡単に捨てて一般社会に飛び込むなんてできないなと思ってしまう(この辺は千葉雅也がTwitterでいつも語っているセクシュアリティ論とも重なるなぁと感じている。そしてゲイの問題と絡めると、過去に伏見憲明立教大学での講演会で言っていたこととも重なる)。

宮台の主張ーーせっかく法の外の掟の世界に生きているのに、なぜ一般社会に入りたがるのか。法の世界がどんなにくだらないか知っているか?ーーは、映画『サーミの血』を鑑賞したことでクリアになった。可哀想な、社会から排除されている人たちを一般社会に包摂してあげよう。サーミの部族社会を終わらせてあげよう、ヤクザをなくそう、LGBTQを受け入れましょう、事はそんなに簡単なことではなかった。法の外にある、掟の世界でしか通用しないシンクロニシティ、幸福。それはこの映画の中では「歌」として見事に表象されており、ヤクザ社会なら独特の儀礼であり、LGBTQなら下記の底辺の平等だろう。それは容易に捨てていいものではない。この映画は「誰ひとり取り残さない社会」を目指す潮流への見事なカウンターになっていると思う。『サーミの血』は主人公が部族社会を脱け都市に飛び込んで、めでたしめでたしという話ではない。大なり小なり、裏切られる部分もある。マイノリティが不幸で、マジョリティが幸福なわけではない。人間はもっと複雑なのだ。結論がすごいシンプルになってしまったけど、本当にそう思う。

なんだか構成も考えずバーっと書いたのでまとまってないが、とりあえず大事な主張は書けたのでこれまでとする。以下は映画を観終わった直後の自分のツイート。

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最後のツイートに補足しておくと、上記の伏見憲明の話は2018年に立教大学において吉澤夏子ゼミ主催で中村うさぎとの講演でされたもの。当時のメモを見返しつつ書くと、昔のゲイバーはそこにフリーターが座っていようが隣に大手企業の管理職が座ってようが「俺たち所詮ゲイだよね」という底辺の平等があったが、最近ではゲイバーすら一般社会の価値観が入り込むようになってしまい、年収や社会的地位をみな気にするようになってしまい世知辛いとのこと。これこそ一般ピープルになること=クズになることを端的に表現しているな気がしてならない……。ちなみにこの講演会は無料・予約不要というものであったにもかかわらず、広報が少なく知る人ぞ知るイベントだった。2人とも忖度しないタイプであり、ものすごいぶっちゃけ話が広がっていた。客席に****(元国会議員)がいて逆質問をされていたりしてアツかったのだ。端的に言うと反ポリコレ的だったりした。あの一夜、ノエルシーズンでもあり立教大学池袋キャンパスの壮麗なクリスマスツリー×4は忘れられない。このような場がコロナ後少しでも復活することを祈って……。