by SHIRA / Сира

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映画『サーミの血』がよかった/宮台理論で補助線を引くとわかりやすい

映画『サーミの血』を観たキッカケ

先日プライムビデオで映画『サーミの血』を観た。とてもいい映画だったので、雑多だけど思ったことを書いてみる。

この映画を観たきっかけは、DOMMUNEポッドキャスト(これもAmazon musicで無料で聴ける)におけるダースレイダー×宮台真司の対談で絶賛されていたから。件の番組はヤクザ映画が主なテーマなのだけど、その前段、つまり「法の外における掟の世界に生ける者の幸福」が『サーミの血』を題材として語られていた。

宮台真司に詳しい人なら、宮台がよく「法の外におけるシンクロを知っているものは幸福」とか、「我々が今生きている法の世界はクソなので適応したフリくらいに留めるのが正しい」と語っているのを聞いたことがあると思う。私はこれを2021年5月23日のゲンロンカフェでのイベント(宮台に加えて西田亮介、東浩紀が参加している。とてもいい回だったので再放送を待たれよ)でも聞いた。その時の語り口だと、1980年台の教師の例が出てきたと記憶している。ざっくり言うと、昔は教員拡大の波に乗って、暴走族あがりやヤクザあがりの教師と言うものが生まれた。彼らは今で言うところの教育困難校で素晴らしい役割を果たした。自分がヤンチャだったからこそ学校が嫌という子の気持ちがわかるし、フィジカル面でも対処できる。でも今やそんな教師はおらず、似たようなやつが似たようなやつを再生産するようになった。あ、似たようなやつってのは全部クズってことなんですけど。こんなん。

また、この記事でも書かれているように、宮崎学『近代の奈落』を引用し、「被差別民はせっかく法の外の掟の世界に生きているのに、一般社会に包摂されたがる。でも一般ピープルになる=クズになるってことなんですよ」とも言っていた。

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自分はその時、宮台さんの言うことは正直よくわかっていなかったのだけど、映画『サーミの血』を鑑賞したところ非常に腑に落ちた。というわけでここからが本題。もちろんネタバレ有り(だけどこれを読んでからみても十分おもろいはず)。

 

ざっくりした内容

サーミの血』のあらすじや予告編を見た人は、部族社会に生きるサーミの少女が、狭く閉じられた社会から抜け出し、現代の都市社会に晴れて繰り出し、性愛や友情、学校生活や消費を楽しむ……といった物語に見えると思う。しかしこれは先述のポッドキャストでもダースレーダーが指摘していたようにミスリードで、事はそんなに単純ではない。

主人公はなるほど確かに、サーミであることで嫌な思いをする。そこには性被害もあれば、トナカイ飼いを揶揄した形での屈辱的な暴力もあり、明確な進学差別もある。サーミであるからバカにされる。成績は良いのに能力が劣っていると決めつけられる。彼女がここから抜け出したい、私も「スウェーデン人」になりたい、と思うのは当然の流れである。そして実際、彼女は洗濯物から勝手に拝借したドレスを着てパーティーに繰り出し、異性と出会い、彼のツテを頼ってサーミ人のみが通う学校から脱出する(この途中にて、列車の中でも眠りこんでいる他の客のバッグから盗みをして服装や身なりを都市用に誂えるのだが、その辺の「非定住民には所有の感覚がない、だから空いているものを使うのが悪いという感覚がわからない」という議論はポッドキャストで深められているので聞いてほしい)。

晴れて彼氏の家に居座り(両親の理解を得られずすぐ追い出されるのだが)、図書館に流れ着いた彼女は司書の案内でとりあえず併設の学校の授業に放りこまれる(この一番最初の授業というのがスウェーデン式準備体操みたいなやつで、サーミの血製作陣のセンスを感じる!近代社会の規律に馴染めない主人公を見事に画で表現している。それは残酷なことに、体格や容姿といった外見も含めてである)。

右も左もわからないままとりあえず主人公は学校に通う。放課後に同性の友達とおしゃべりしたりする。一定期間の経過を経て、突然学費の請求が突きつけられる(この現代の無慈悲さよ!)。困った主人公はお金を工面するためとうとう家族のもとへ戻り、「こんなのはもう嫌!」「わたしが相続した分のトナカイを売って!」「父親の銀のベルトなら売れる。それをちょうだい!」と言い放つ。これが家族との決定的な亀裂となって、銀のベルトと共に彼女はサーミを去る。ちなみに「わたしが相続した分のトナカイを売って!」は名言だと思う。財産がトナカイという世界を知れたのは僥倖。だって我々は金銭の他は所詮不動産(土地、建物)くらいしか持っていないのだから。

ともかく彼女は学校に復帰し、なんとか都市でやりくりして生活する。ある日彼氏の誕生日パーティーに誘われたので行くと、「人類文化学」専攻の院生たちから「あなたサーミなんでしょ?あの歌を歌って!」と頼まれる(歌とはサーミ人が狩りをするとき、休むとき、暇なときに歌うもので、とにかくサーミの生活と共にある歌。映画序盤で、学校を嫌がる妹にせまがれボートを漕ぎながら歌うシーンが重要な伏線になっていたことがここでわかる)。そこで彼女はまたしても屈辱を感じてしまう。自分は結局どこに行っても出自がついてまわり、スウェーデン人に同化することはできないと突きつけられる(それを頼んだのが、一見リベラルで部族などにも理解がありそうな人類文化学専攻の院生という設定のいやらしさが制作陣の以下略)。

厳密に言うとこの映画は老婆(主人公)が過去の自分を振り返るという設定で、妹(姉とは逆に部族社会に留まることを選んだ)との関わりも重要なのだけど、とりあえずそこは観てください。ということで予備知識として必要な映画の内容はこんな感じ。

 

マイノリティとマジョリティを分けるのは、結局ささいな「差異」でしかない/マイノリティが自己の歴史を葬ることもできない

この映画を観終わったあと、あ!宮台さんがこの前言ってたのはこれか!と腹落ちした。私は「法外にいる差別されているマイノリティ(例:サーミ、ヤクザ、LGBT)が一般社会に包摂されることなんて、まったく良いことではない!」という宮台の主張がイマイチよくわかっていなかった。だって社会は間違いなくその方向性にあるし、一般社会でマイノリティが差別されるのはそりゃ良くないだろ、とシンプルに思ってしまっていたからだ。

映画『サーミの血』から私が読み取ったのは主にこの2点である。

  • サーミ人スウェーデン人を分けるのは生活様式ではない。マジョリティの世界内でもささいな差異ですぐ他者を差別するようになっている。
  • 自分の出自を「なかったこと」にすることはできない。かつて差別される側だった自分と差別する側に回った自分という矛盾した両者を自己の中に抱えるのは、いずれ自分を引き裂く。平たくいうと、名誉XXになれたとしても苦しむ。そしてそれはかなり孤独な苦しみである。

一つ目について。個人的にすごく示唆的だなと思ったシーンがあった。それは主人公がスウェーデン人の学校に入り始めてすぐ、女友達の輪に入り談笑しているシーン。誰かが道ゆく女性を見て言う。「無地じゃなくて花柄のスカートとか、ダサイ」。主人公はもちろん都市の流行のファッションなんてわかっちゃいない。でもとりあえず周囲に同調してダサイよねとか言って嘲笑しておく。

こんなこと自体はよくあることである(誰でも経験あるだろう)。重要なのは、マジョリティという立ち位置もかなり危ういものであり、常に何かを差別しておかないと成り立たないということである。そうしてスカートの柄が無地か花柄かとかで差異化を計るのだ。自分たちが差別される側になることを回避するために。

二つ目について。主人公が彼氏の誕生日パーティーで屈辱を受けてから、都市に同化し生きていった過程は映画では省かれており描かれていない。しかし老婆になった主人公が、息子に連れられて久方ぶりに部族に戻り、妹の葬式に参加しているという設定である以上、おそらく結婚をし子をもうけ、ずっとスウェーデン社会にいたことは間違いない。上の記事にもある通り、最後の妹への「許して」には色んな解釈があるだろう(ここには書かないけど、私は宮台さんとは違う解釈をしている)。主人公がサーミを飛び出したことについて、完全に失敗と思っているとか後悔しているとかやっぱり戻りたいと思っているかは定かではないし、そもそも彼女の心情はそんな簡単に割り切れるものではない。その複雑さは冒頭とラストの老婆の、素晴らしい演技に滲み出ている。役者でのMVPは間違いなくこの老婆役だと思う。

私が読み取ったのは、自分の出自をなかったことにすることはできない。という物理的には当たり前のことだ。そして、仮にそれを無理やり「漂白」してしまうと自己のライフストーリーやアイデンティティーが途端に崩れるということだ。冒頭で老婆(主人公)は、サーミを明らかに侮蔑している。汚いし、嘘をつくし、盗むし。非文明人なのだと。でもそれは、映画を観ればわかるとおり紛れもなく彼女の過去でもある。お前、盗みやってたやん。

こういう表現は適切ではないのだろうがわかりやすいので採用すると、彼女は「名誉スウェーデン人」みたいになっている。でもそれは、自分の本来の出自、差別される側だった自分を否定するものである。しかし繰り返しになるが、自分の出自を遡ってなかったことにすることなんてできない。すると彼女は、矛盾した自己を抱えることになり苦しむ。そしてそれは、マイノリティを貫いた者(妹)にも最初からマジョリティとして生まれたそんなことを考えもしない幸運な者(ほら、サーミの歌懐かしいでしょ?と無遠慮に言ってくる息子)にも理解の及ばないものである。一般社会に包摂されることを選びつつ、だからこそ過去の苦渋の経験をマジョリティの皆々様には語ることができない。孤独な苦しみだ。

このことを考えるとマイノリティがマイノリティ性を簡単に捨てて一般社会に飛び込むなんてできないなと思ってしまう(この辺は千葉雅也がTwitterでいつも語っているセクシュアリティ論とも重なるなぁと感じている。そしてゲイの問題と絡めると、過去に伏見憲明立教大学での講演会で言っていたこととも重なる)。

宮台の主張ーーせっかく法の外の掟の世界に生きているのに、なぜ一般社会に入りたがるのか。法の世界がどんなにくだらないか知っているか?ーーは、映画『サーミの血』を鑑賞したことでクリアになった。可哀想な、社会から排除されている人たちを一般社会に包摂してあげよう。サーミの部族社会を終わらせてあげよう、ヤクザをなくそう、LGBTQを受け入れましょう、事はそんなに簡単なことではなかった。法の外にある、掟の世界でしか通用しないシンクロニシティ、幸福。それはこの映画の中では「歌」として見事に表象されており、ヤクザ社会なら独特の儀礼であり、LGBTQなら下記の底辺の平等だろう。それは容易に捨てていいものではない。この映画は「誰ひとり取り残さない社会」を目指す潮流への見事なカウンターになっていると思う。『サーミの血』は主人公が部族社会を脱け都市に飛び込んで、めでたしめでたしという話ではない。大なり小なり、裏切られる部分もある。マイノリティが不幸で、マジョリティが幸福なわけではない。人間はもっと複雑なのだ。結論がすごいシンプルになってしまったけど、本当にそう思う。

なんだか構成も考えずバーっと書いたのでまとまってないが、とりあえず大事な主張は書けたのでこれまでとする。以下は映画を観終わった直後の自分のツイート。

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最後のツイートに補足しておくと、上記の伏見憲明の話は2018年に立教大学において吉澤夏子ゼミ主催で中村うさぎとの講演でされたもの。当時のメモを見返しつつ書くと、昔のゲイバーはそこにフリーターが座っていようが隣に大手企業の管理職が座ってようが「俺たち所詮ゲイだよね」という底辺の平等があったが、最近ではゲイバーすら一般社会の価値観が入り込むようになってしまい、年収や社会的地位をみな気にするようになってしまい世知辛いとのこと。これこそ一般ピープルになること=クズになることを端的に表現しているな気がしてならない……。ちなみにこの講演会は無料・予約不要というものであったにもかかわらず、広報が少なく知る人ぞ知るイベントだった。2人とも忖度しないタイプであり、ものすごいぶっちゃけ話が広がっていた。客席に****(元国会議員)がいて逆質問をされていたりしてアツかったのだ。端的に言うと反ポリコレ的だったりした。あの一夜、ノエルシーズンでもあり立教大学池袋キャンパスの壮麗なクリスマスツリー×4は忘れられない。このような場がコロナ後少しでも復活することを祈って……。